【感想】漂白される社会 開沼博

 社会学は何をしている学問かと問われた時、あなたならどう答えるだろうか?正直、英語の論文を作成する必要がないというイメージ以外、何も持っていなかった。

 現在では、社会学について問われたら、開沼博を思い出してしまうほど、私の中での社会学の出会いは、この著者以外にはない。

 開沼博氏は社会学の博士課程を専攻し、同時にジャーナリストとしても多くの署名記事を提供、その成果をまとめたのが、本書「漂白される社会」である(彼の博士論文にも、本書の一部が使われている)。

 本書が出版されたのは2011年頃であるが、いま読んでもその中身が色褪(いろあ)せるどころか、その現代の世相の変わらなさに気づかされる。その気付かされたことを、ここに本書を引用しながら、紹介したい。

 私が初めて彼の記事を読んだのは、ダイヤモンドオンラインでの署名記事だったように記憶している。筆致や文体も素晴らしかいこともさることながら、取材対象が社会的にマージナルな、周縁的な方々(路上キャッチ、オレオレ詐欺、ホームレスキャバ嬢、過激派左翼活動家など)であり、そこから紡ぎ出される、我々の目から、視界から消えている世界へ読者を開沼氏が引っ張って見せてくれたことを記憶している。

 その後、私は彼の記事をウォッチし、本書を購入した。当該書籍の元記事をすべて読んでいたので、本書を手にとった時、そのタイトルの暴力的な恐ろしさ、息苦しさを感じることができた

 

 まず、著書の序章について、引用して締めたい。

 私は現在、社会学の研究者であるが、それ以前の長い期間、商業誌のライターをしてきた。

 そしてこれまで、事故以前の福島の原発周辺地域や浄化作戦の渦中にある新宿歌舞伎町など、様々な日本の「周縁的な存在」(あるいは、「何か」にとっては最も「中心的な存在」なのかもしれないが)を、いわば、"嗅覚"に従うままに訪れ、フィールドワークを続けてきた。

 そのなかで、常に感じてきたことがある。社会の至る所で「周縁的な存在」から何らかの偏りや猥雑さ、すなわち「色」が取り除かれ、「周縁的な存在」にとっても、その外部にとっても「自由」で「平和」な状況ができつつあること。

 また、それに支えられた「豊かさ」が、ある種の均衡状態を構築し、多くの人々を「幸せ」にしていること

 そして、その「幸せ」こそが、人々を不安、不倍、さらには「不幸」へと追い落としもするということにー

その構造に気づき、これまで見てきた対象を再度振り返った時、それらに共通する社会のあり様をまとめるためには、「漂白」という言葉しかないと考えるようになった

(続く)

漂白される社会

漂白される社会