【感想(続き)】漂白される社会 開沼博

【感想】漂白される社会 開沼博 - 鳥木ケンのブログ 〜金融系が多め

(前回の続き)

 本書「漂白される社会」では、著者である開沼博氏が、周縁な分野(路上キャッチ、エセ同和等)をフィールドワークに、社会学の博士論文としての研究成果およびジャーナリストとしての活動成果を示してくれている。

 本書は読者に知的興奮とともに色々と考えさせられる。個人的に気になった箇所を引用していきたい。

 

【ホームレスギャルの移動キャバクラ】

 この単語を耳にしたことがあるだろうか?これは開沼氏が若い女性の貧困について調べ、その過程で発見?したある女性二人(リナとマイカ)の職業であった。

 私はこの記事をダイヤモンドオンラインで閲覧した時、一瞬、自分の中の時間が止まり、何をどのように解釈すればいいのかわからなかったことを覚えている。

 開沼氏が、出会いカフェ(女がミラー腰に座り、男がその中からデートする女性を交渉できる売春システム)でホームレスのリナとマイカと出会い、そこから取材を重ねた。

 彼女らは、基本的にマクドナルドを家代わりに過ごすことが多く、出会いカフェで客を見つけては、キャバ嬢として男を接待し、時に体を売り、生計を立てていたとのこと。その仕事を、彼女らは移動キャバクラと称していた。

 本記事を上筆したあと、NHKも取材を行ったらしい。その内容自体は、開沼氏の元記事からは出てこなかったので、本書の出版にあわせて加筆されたのだろう。その内容について、引用したい。

なお、本章については後日談がある。「二人のホームレスギャル」はテレビ番組化された。NHKEテレ「ハートネットTV」で放送された「シリーズ・貧困拡大社会行き場をなくした女性たち」(二〇一二年九月二四日)において、家を持たず、歌舞伎町で暮らす二人の若い女性の密着映像が流れた。これはリナとマイカではない。「ダイヤモンド・オンライン」の記事を見たというNHKの番組担当ディレクターK氏は、繁華街の「出会いカフェ」に張り込み、家を持たず二人組で行動する「ホームレスギャル」を見つけ出し、その生活に密着した。彼女たちは「ハーフ」や「関西出身」でこそないものの、厳しい生育環境を飛び出してその日暮らしの生活をし、二〇歳そこらで繁華街にある二四時間営業の飲食店で夜を明かす日々を送っていた。

 この内容を目にし、私自身はいたたまれない気持ちになった。開沼氏が取材したリナとマイカが特殊な、特別な存在ではなかったからだ。他にも同様の境遇で生活する人がいることが、ここで可視化されただけ。

 私はこの番組自体を観たわけではないので、放送後の反響がどのようなものであったのかを知らない。彼女らの境遇を直視できず、理解できず、知能が足らず、安易なバッシングが起こったのかなと想像しながら本書を読んだが、それに近い反応があったことは本書の行間から読み取れた。

 私の解釈では、貧困と言われる中でも、世間的に助けの手を差し伸べるに値する、許容される貧困とそうではない貧困について、著者は提示してくれている。

 いつぞやか、相対貧困の母子家庭の女の子へバッシングがあった(興味がある人は、以下の記事が比較的まとまっていたので、目を通してほしい)。

https://www.google.com/amp/s/www.buzzfeed.com/amphtml/kotahatachi/behind-nhk-hinkon

 出会いカフェとマクドナルドを寝床に生活する彼女らは、それこそ絶対貧困であるが、世間がイメージする、貧しくとも、慎ましく、頑張って生きるピュアな貧困者ではない。しかしながら、思うに、ここで登場した女性たちは若かったから、プラスの反応があったのだろう。

視聴者からは「このような現実があることを想像もしていなかった」「彼女たちのような存在をもっと取り上げるきだし、どう考えていくのか議論すべきだ」といった声もあったようだ。
 それが悪いというわけではないが、「わかりやすい貧困」「真面目な人が必死に頑張っている。のに割りを食うような貧困」はメディアで取り上げやすい。しかし、「一見、わかりにくい、グレーな貧困」「インフォーマルなセーフティネットに頼るしか術がない貧困」「合理的な思考を積み重ねていく『普通の人』としてではない、生まれ、生きていくなかで、生き続けるために「思考のスイッチ」を切りながら、善良な市民が眉をひそめるような生き方へと突入せざるを得なかった人々の貧困」をメディアで取り上げた意義は小さくはなかっただろう

 次に、著者が提示する貧困の定義について引用したい。私は、この定義を記述する開沼氏は、少し怒りに震えながらも自制したのではないかと勝手に想像する。

 その後も、複数のメディアから、「ホームレスギャルの移動キャバクラ」への問い合わせが続いている。そして、実際同じような境遇の人々にコンタクトが取れたとの報告も入っている。リナとマイカは、どうやら特殊な事例ではないらしい。
 「周縁的な存在」の姿を目の前にした時、「特殊事例だ」「調査・考察の詰め方が甘いのでは」などと言うのは簡単だ。そう指摘しておけば、とりあえず批判した形をとれるのかもしれないし、私自身にも、ついそうしたくなる気持ちがないわけではない。
しかし、なぜ自ら検証に行かないのか。確かに、本書の記述のみで「研究の成否」を検証しきれない部分もあるかもしれないが、ここに描かれる人・場所は、少なくとも二〇一三年時点では実際に存在しているれば、そんな戯言はまったくもって無意味であることに気づく。

 一見すると、学問的にも、政治的にも正しいように思えるその態度が、その当事者たる「弱者」に向き合い、凝っているように見えて、実際は、むしろ問題の本質を見ずに済む効果を持ってはいないか。よりクリティカルな議論を行うためには、「特殊事例だ」と言うならより普遍的な事例を、「調査・考察の詰め方が甘いのでは」と言うならより厳密な調査・考察をもって、批判的精神を持つ自らが「現代社会のあり様」を上書きすることが求められることを、自戒を込めて確認しておこう。

 少しではなく、ブチギレだったかな。

(続く)

 

漂白される社会

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