【感想(続き2)】漂白される社会 開沼博

【感想】漂白される社会 開沼博 - 鳥木ケンのブログ 〜金融系が多め

【感想(続き)】漂白される社会 開沼博 - 鳥木ケンのブログ 〜金融系が多め

(前回の続き)

 周縁的な存在(ヤクザではないにしろ、カタギと呼ぶには?がつく人々というべきか?)について、著者である開沼氏が取材してきた内容について述べてきた。

 察している人もいると思うが、本書はどこかウシジマくん(闇金融に関する漫画。登場人物が社会のシステムからあぶれた人々で、闇金融から手を出してからストーリーが展開される)に登場する人物を想像するかもしれない。

 本書の周縁的な存在とウシジマくんに登場する底辺(汚い言葉だ)と称される人々は交わる部分も多い。

 そのような人々を想像しなら、まずは次の文章を読んでほしい。

本書で見ていく「周縁的な存在」は、「倫理的にまっさらな存在」や「ピュアな弱者」ではない。しかし、それら・彼らは間違いなく、私たちに新たな議論の枠組みの提示を迫るはずだ。そして、その議論こそが、多くの人に見逃される「現代社会のあり様」の輪郭を浮き彫りにしていくだろう。

 この引用文を読んだだけでは、唐突に話が展開され、何を意味しているのかが掴みづらいと思う。

 意訳すると、ウシジマくんにの登場する人物を知ると、我々のような一般的なカタギが考える弱者を支えるシステム(生活保護とか)は、実はバグがあるって感じかな?

 ただし、そのバグはナマポ(生活保護の略称スラング)に払う金を減らせという、知能の低い議論には繋がらない。別の箇所を引用して、話を展開したい。

「純粋な弱者」を想定しながらの「相対的強者」による代理論争は、「良き社会」を構想するうえでは確かに重要な議論である。しかし、一方では、「純粋な弱者」を求め、あらゆる弱者を「純粋な弱者」の中に押し込んで「支配する眼差し」と表裏一体の関係にあることに、自覚的であり続ける必要がある。

 「相対的強者」とは、住む家、食料に困っていない中流の生活を送る人というより、ウシジマくんにの登場する人物と接点のない市井の人々と考えてほしい(要はこのブログを読んでいる、奇特なあなたでもいい)。

 そのあなたが思い描く「純粋な弱者」と、開沼氏が取材してきた周縁的な人々とは違うということ。

 むしろ、"あなた"が思い描く、助けるに値する弱者などはほとんど存在しない。むしろそれはあなたの想像の産物(見たい現実だけを見ているだけ)だと、著者は主張しているように、私は解釈している。

「それは、震災後、「暴動もなく、苦難に立ち向かい、試練に耐え忍ぶ美しい東北人」と「純粋な弱者」を称え、そこからはみ出した途端に「復興マネー・原発マネーにまみれ、パチンコや飲み屋で散財する」と「あってはならぬ弱者」を断罪する眼差しとも相通じる眼差しだ。メディアを通してしか被災地を知ろうとしない者の妄想の中に生きる「純粋な被災者」など、現実の被災地のどこにもいない

 この文章を読んだとき、ステラ・ヤング氏が提唱した「感動ポルノ」を、私は連想した。

 障害者(の分際)にも関わらず、純粋に生きる障害者に負けない(そもそも勝ち負けのが前提として登場するのがイカれてる)で生きる姿(道徳的に正しいことしかしてはいけない。タバコ、アルコールは愚か、貧しい生活をしていないと、"正しい"障害者とはみなされない)を、ドキュメンタリー番組を通して知り、感動する健常者の目線とでも言うべきか?

 「純粋な弱者」以外の人々(「相対的な強者」を除く。要は、救うに値しない、ウシジマくんに登場するような弱者)はについてはどうなるか?次の文章を引用したい。

生活保護を含めた社会福祉のあり方は、今後も様々な形で社会問題化するであろう。
生活保護制度を引き締めればいい」と威勢のいいことを言っても、あるいは「弱者を守るために弱者批判をするな」と「正論」を振りかざしたとしても、それはむしろ、バーチャルな「純粋な弱者」の枠に入りきらな「グレーな弱者」を不可視な存在へと追いやり、社会の中で潜在化させていく
 そして、公的な弱者包摂の制度から零(こぼ)れ落ちた人々は、代替可能な機能を有する自生的かつ非公式的な「弱者包摂の制度」へと吸収され、貧困のループの中で生き続けるようになる

 ウシジマくんに代表する闇金融(反社会的勢力)が、新宿にいるような風俗嬢を喰い物にするスカウトが、生活保護にも頼れない弱者を救っている一面もあるということ。

 そして、闇金融も新宿のスカウトも社会的にその存在を許されなくなり(漂白されることにより)、その弱者はどこへ行くのか?

漂白される社会

漂白される社会