【感想(美術品の意思)】美意識の値段 山口桂


【感想(芸術−鑑賞法)】美意識の値段 山口桂 - 鳥木ケンのブログ 〜金融系が多め

(前回からの続き)

 前回、美術品オークションについて、美術品の価値となるファクターの一つ「来歴」、そして美術品の鑑賞方法について記載した。

 今回は会話のネタになりそうな事柄を、本書をもとにまとめていきたい。もう一度、美術品とは。

【美術品の意思】

「美術品」とは、

(1)人を介さずには存在しない。自分ひとりで山奥に閉じ籠もり、一切人に会わずに絵を描き、それを誰にも見せずに自分だけで悦に入り、自分が死ぬ時に全て焼き捨てて灰にしてしまう。これを芸術品とは呼ばない。

(2)来歴が必ず存在する:美術品には必ず何らかの「来歴」が有る。それはその作品が誕生して以来、誰かによって意図的に伝えられて来たからである

(3)人は死ぬが作品は残る:如何なる美術品も何時かその作者は世を去り、持ち主も次々と死んで行く事に為るが、それでも作品は残り、次の持ち主へと引き継がれる

 美術品とは多くの人がその作品を後世に伝えてきた歴史でもある。戦争、災害、疫病と人類が生存の危機に瀕する状況が襲われてきても尚、美術品は後世に残り、伝わってきた。そこが意味することを、後世に生きる我々は先人に感謝し、その作品が残された意味を感じていきたい。

そしてこれ等の事を考えると、私には「美術品」が恰も「遺伝子」の様に思えて来るのだ。人間の肉体である「所有者」=「来歴」を何十、何百、いや古代美術で云うならもしかしたら何千と云う数を経て、それが今美術館や博物館、コレクターやもしかしたら貴方の家に在ると云う事実。それは貴方自身が今存在している事実と符合する。そして時にはまるで「美術品自身の意思」が次の所有者を選んで残って行くのではないか、と思える程に、作品が「行くべき場所」に移動する場合も有る。これも何処か遺伝子的な「必然性」に満ち満ちている気がするし、或いは数多の美術品の中で、目利きが選び続けた良い美術品が選択されて残って行く、と云うのも、何か有機的な感じがしてしまうのだ。 

 人間が美術品を選んでいるのではなく、美術品が、作品が有機的に、必然的にコレクターを選んでいるというのは、この世界に生きる人でないと、なかなか感じられない概念だと思う。それだけ、多くの芸術作品に対し、いろいろな気持ちを持っているのだと思う。

【贋作問題】

 当たり前であるが、価値ある美術作品にはビッグマネーが動く。そのマネーをかすめとろうとする輩はわんさか湧いてくるのは自明のこと。贋作について、本書の内容を引用したい。

古美術の贋作に関しては、特に江戸末から明治時代に多かった。より近い時代だと、 有名な物に「春峯庵(しゅんぽうあん)事件」が有る。一九三四(昭和九)年に起きた、肉筆浮世絵の大規模な偽造事件だ。この年、東京美術倶楽部では「春峯庵」なる旧家の所蔵品との触れ込みで、写楽歌麿等の肉筆浮世絵の入札会が開かれた。「世界の大発見」との新聞報道も有り注目されたが、やがて何と全て贋作と発覚したのである。最終的に、これを持ち込んだ画商や贋作を描いた絵師等の集団が詐欺罪で摘発された。

 近い時代とあったが、およそ80年ほど前の事件である(もっと近い時代の贋作事件はないのかな?)。現在ではX線検査等で、物性から凡その年代を調べることが可能であるのも影響しているのだろうか?

また「永仁の壺事件」をご存知の読者も居るだろう。一九五九(昭和三四)年に、「永仁二年」(一二九四年)の銘を持つ瓶子(へいし、壺の一種)が鎌倉期の古瀬戸の傑作として国の重要文化財に指定された。だがその直後から贋作疑惑が持ち上がり、やがて陶芸家の加藤唐九郎がこの壺は自分が一九三七年頃に作ったと告白。真相は諸説有れど、当時の文化財保護委員会が行った X線蛍光分析等の結果、同作は鎌倉時代のモノでは無いと結論付けられた。斯くしてこの壺は 一度与えられた重要文化財の指定を解除されたのである。これは行政、学界、美術界を巻き込んだ大贋作事件と云える。

 重要文化財の指定を解除されたとは大事だ。これを読んで思い出したのが、日本の考古学会の神の手事件である。この学会は、英語の論文で査読を受けた論文を発表していなかった。内輪の論理で、日本の古代史を捏造していたのが原因だが、それを想起してしまったのは失礼だったかな?

 海外でも贋作問題はもちろん存在する。有名どころは、映画にもなった『ナチスの愛したフェルメール』であろう。

こうした贋作騒動は、実はとの国でも何かしら起きている。有名なのは、オランダの「天才的」贋作画家と云われたハン・ファン・メーヘレン。彼は1945年に、フェルメール作とさ れていた絵画をナチス・ドイツの高官に売った罪で逮捕・起訴された。当初、オランダ当局は 文化財の略奪者として(つまりフェルメールの真作を売り渡した罪人として)長期の懲役刑を求めたが、メーヘレンは自分が売却した絵画群は自ら手がけた廣作だと告白。法廷で実際にフェルメール風の絵を描いてもみせたと云う。彼の贋作作りはその模倣ぶりに加え、当時の真贋判定 を欺く為に画材選びから仕上げ迄徹底していた。X線写真等の最新鑑定の結果、彼の主張通り一連の絵画は贋作だと証明された結果、メーヘレンは「売国奴」から一転、「ナチス・ドイツを騙した男」として英雄視さえされるようになった。

 また、贋作問題ではないが、ナチスから略奪された絵画が返還される物語もある。映画『黄金のアデーレ 名画の返還』もあるので、あわせて観ると感じるものがあるかと思う。

【永遠の「現代美術」】

 歴史には始まりがある。挑戦しないことには、何も始まらない。

さて、私がオークション・ハウスのスペシャリストとして長く過ごしたニューヨークと云う街は、如何なるアート分野に於いても宝島である事は間違いないが、その中でも特に「現代美術」の宝庫である。それはアメリカと云う国の歴史と、この街の特性に拠る。何しろこの街は「新しいモノ」が生まれ易い街で、それは多国籍・多宗教な住民達に拠る異文化混淆(こんこう)が、嘗(かつ)て無いアートを生み出す土壌を作っているからだ。そしてこの街は、アーティスト達を差別無く迎え入れるし、彼等への援助もする。だが、其処に住む住民達の目は肥えていて、そう簡単には彼等を甘やかさない。来たい人は拒まないが、生きていくには厳しい街なのだ。

 ハードボイルド探偵の小節を読んでいるかのような気持ちにさせてくれる。これはフィクションではなく、ニューヨークという街、現代美術が取り扱われる中心地、そこでアートで生きるということ。

 ここではニューヨークを語る話ではない。すべての古美術品は当時の現代美術であったのだ。当時の因習、固定概念を打ち破ったのが"当時の現代美術"であり、それが現在、古美術品として存在している。我々は過去の現代美術を鑑賞している。すべての美術品は、作られたときは"現代美術"である。

如何なる「古美術」もできた時は当然「現代美術」だった訳だが、今その古美術を観た時に、ハイ・クオリティの現代美術を観ている様な「新鮮さ」と「斬新さ」を感じられる作品に限って、古美術品としても一流なのである。それはその作品を長い年月残してきたオーナー達の眼がそれを感じてきたからで、一流品の「フレッシュネス」はどれだけの時を経てもなくならない また同じ意味で、今度は逆に今現代美術を観る際、「この作品が100年後、いや500年後にその新鮮さや斬新さが失われ、古臭く感じられないだろうか?」と考える事も大切だ。すなわち、「現代美術」は「古美術」に為った時に或る意味真の評価が得られるからで、この事は「美術史」が証明している。なので、現代美術(市場)を美術史から切り離して語る事は、 非常に危険な事だと考えている

美意識の値段 (集英社新書)

美意識の値段 (集英社新書)

  • 作者:山口 桂
  • 発売日: 2020/01/17
  • メディア: 新書