【感想(続き)】言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか 塙宣之

【感想】言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか 塙宣之 - 鳥木ケンのブログ 〜金融系が多め

(前回からの続き)

 2019年似開催されたM−1グランプリについて、少しだけ雑感を述べ、塙宣之氏の著書で気になった箇所を引用したい。

 この舞台での漫才をみて感じたのは、誰も傷つけてはいないということ。過去の典型的な漫才は、大きな声でアホ、ボケ、ハゲ、ブス等の差別語で罵声をあげていた(過去の古い芸人の漫才をyoutubeでみればよくわかる)。

 今回の漫才大会では、特に、3位と優勝した漫才コンビは、差別的な汚い言葉を使うことなく、大きな笑いを生み出していた。

 優勝したコンビは、最中やコーンフレークと、どの世代でも知っている、理解できる話題をすえたネタであった。これらの食べ物についてどう語ろうが、傷つく人はいないであろう。むしら、取り上げてもらった商品は宣伝にもなったので、この漫才に関係するステークホルダー全員がwin-winとなっていた。

 繰り返すが、従前の漫才では、ツッコミと呼ばれる側が、もう片方のパートナーに口の悪い言葉ないし罵倒するのが漫才の王道であった(いいすぎ?)。しかしながら、今回のM−1の大会に出た漫才師すべてにおいて、そのような不快になる内容は記憶になかった。

 お笑いコンテンツは地上波のテレビで放送され、日本の中では人気があり、いろいろと日本人の生活様式に影響力を与えてきた。笑いを提供してくれると同時に、残念ながら、負の側面もあり、我々の文化となってしまったものもある。

 大きく分けて二分すると、1つは頑張る人を嘲笑する文化を育んでしまったこと。もう1つは、他人の容姿など、本人の努力では変えられようのない事柄を馬鹿にし、笑いを取る文化が形成されてしまったこと(イジると称される)。個人的に、この2つに分類されると考えている。特に、後者はハラスメントに該当するため、サラリーパーソン諸氏は、ビジネスの場(呑み会も含む)では絶対にこの手法で笑いをとろうとしてはならない。

 さて、このお笑い番組で披露されるネタについて、本書では塙氏が面白い考察をしていたので、引用したい。

ちゃんとしたネタとは何かというのも難しいところですが、一つの定義として「他の人でも演じることができるネタ」と言うことはできるかもしれません。ハゲネタは、ハゲの人しかできません。(中略)だから、自虐ネタはフリートークだと言いたいのです。

 これだけ見るとだから何と思ってしまうが、次の箇所を読んで、いろいろと考えさせられてしまった。

落語家は同じ演目をいろんな人が演じます。それは話がよくできているからです。それをネタと言うのだと思います。もっとわかりやすい例で言うと、親が子どもに読み聞かせるような日本昔話もネタだとおもいます。話が完成しているので、誰が読み聞かせても子供は喜びます。フリートークの時間に「桃太郎」の話をする人はいませんよね。ネタとは、そういうものです。漫才でも、桃太郎のようなよくできたネタを考えるべきなのです。

 ここでなるほどと思わされた。

 古典落語と称されるものも、全ては始まりがあり、現在に至っている。もしかしたら、我々は古典漫才という何か新しい創作物の生成過程を目撃できたのかもしれないと、M−1と本書を読んで思わされた。

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)

言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)

  • 作者:塙 宣之
  • 出版社/メーカー: 集英社
  • 発売日: 2019/08/09
  • メディア: 新書