【感想(続き)】ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。  幡野広志

https://trikiken.hatenablog.com/entry/2019/07/16/215701

 前回、写真家で、血液のがんに侵され、末期の症状にかかってる幡野広志(はたのひろし)氏が書き下ろした「ぼくが子どものころ、ほしかった親になる」についての感想を書いた。今回も引きつづき、本書の気になった言葉をピックアップしていきたい。

 彼は、がんに侵され、それをウェブで発信し続けてから、たくさんの「優しい虐待」を受けてきたことを述べていた。自分の息子には、そのようことをする人間にはなってもらいたくないた思うのが親心であろう。彼はこう述べている。

「優しい虐待」について息子に理解してもらうのは、ちょっと先の話かもしれない。だが、これだけは今から少しずつ教えはじめている。
優しい人というのは、人の体や心の痛みを理解できる人だと。
もしも理解できるのなら、無責任なアドバイスなど、決してしないはずだ。
「理解できないのなら、想像することからはじめるといい」と息子にも教えたい。
「相手がうれしくないことは、『うれしいだろう』と思ってもしちゃだめなんだよ。
そのお菓子は自分が大好きなものでも、相手は嫌いかもしれないんだ。
相手を慮ったうえで、自分のできる方法で手をさしのべることができる人が、僕が思う、本当に優しい人だ。

自分の優しさを丸ごとぶつけるだけでは、優しくなれない。

 相手を慮(おもんばが)るのはなかなか難しい。なぜなら、人の気持ちは判らない。

 死の恐怖や身体的な痛みを抱えている場合で、第三者からは何もやりようが無い状態での時、それでも自分には何ができるか? 

 簡単には答えを出せないこと、思慮の無いな言葉や行動は相手を傷つけてしまうことに気付かされる。

 本書をもう一つ引用したい。

 幡野氏はがん治療の過程で、抗がん剤の副作用などにより、自然死よりも自死へと心が傾きかけたことがある。彼は猟銃を持っており、それを使ってというところまで。

 まず、がんに侵されていない、もしくはそれが発見されていない人は、一度、呼吸置いてから考えてほしい。我々の中にある価値観として、大事なものは何か?

 認めない人も多いだろうが、第一に命、それが叶わなければ次にお金がランクされるだろう。

 私が末期のがんとなり、家族に何を残すかを考えた時、お金を最初に残そうと考えてしまうだろう。しかし、彼の導き出したものは違う。

 お金で解決できることはお金で解決すればいいけれど、お金で解決できないことを、僕が残す言葉で、解決の糸口にしてあげたい。
 息子自身の役に立つ言葉を残してあげたい。
 息子が成長していくうえでの、地図のような、コンパスのようなもの。
いろいろと迷ったとき、「自分の父親だったらどう解決していたのかな?」と振り帰ることができるものを残したいと思った。

 幡野氏の考えを目で通した今でも、お金が大事の考えを覆(くつがえ)るにはまだ至らないと思う(だって、お金が大事でなければ、生活費以外の残りすべてを寄付すればいいでしょ?誰かやってる?)。それでも、この考えを捨てられるよう、自分を戒めていきたい。

 私がこの本を読んで感じたのは、時間は限られているという当たり前の事実であり、それは短いこと。時間を無駄にすることなく、自分の命を大切にして生きていきたい。

 幡野氏が導き出した、1つの答えというか、息子への言葉は、父親としての強い気持ちが込められている。

 

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。

ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。

 

 

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。

ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。